2018年01月

2018年01月29日

2018年がスタートした。

新年の御挨拶が遅くなってしまった。

忙しさにかこつけて、更新の遅れ反省。

あらためまして、明けましておめでとう御座います。

反省しつつ、既に1月の終わりがもうそこに来ている。

お客様へ新年の御挨拶やら、賀詞交歓会やら、新年会やらでこの1月は終わりに近づいている。

早い。 最近一段と時間の経過が早い。

昨年の反省を胸に、当社2月の期末に向け、先ずは2か月短期でやるべき事と、今年やるべき事、また中期にわたってのやるべき計画の具体化を明確にしたり、改善したりといろいろと。

ただ、如何せん私自身のCPU処理能力速度が、今一なもので、常に課題を処理し続けないと、私のハードディスクが、クラッシュしたりフリーズしたりする。

時間観念も、現代社会とは反しているが(経営者だかな関係ないが)、一日のスタートが最近やたらと早くなっており、自分自身の稼働時間を延長しているのです。

本来持っている、容量が足らんのもあるのかもしれない。

最近は、特に自らの考えを社員に理解してもらう為の、『言語』『言葉』に気を遣っている。

これは、常に相手は理解してくれているものとの前提で、一方的にこちら側の理解で物事を話す習慣。

自然とやってしまってる。

『言語』とは、音声動作で、意思を疎通させる為に、人間が行う手段や法則の事というらしく、また『言葉』とは、意味をあらわす為に、口で言ったり字に書いたりしたものと言うらしい。

『言語』の中にある「意思を疎通させる為」と『言葉』の中に有る「意味をあらわす為」とは、なんなのだろうか?

先ず先に来るのは、この『言葉』であろう。

意味をあらわす為にすべき事とは?相手の能力に合わせて、相手が理解すべき表現で(例え)で共通の『言語』と言う音声動作(これもやはり相手能力に関連するが)を手段として使い、理解してもらう事ではないかと、勝手に考えてます。

よく議論がかみ合わないとかは別に考えてみます。

社会生活の中で、単純に家族・親子・夫婦・会社など出の生活の中で、私もそうでしたが、案外自分側の理解力で相手が理解してくれているだろうの体で話している事ってありません?

何度も何度も同じこと言っても、『えっ!』ってことありませんか?

自分と相手の理解力が違えば、それは相手は何言っても『ピントは』来ませんよね。

何故分かってくれないのだろうとかと、よく思っていますよね。

それって、こちら側からの一方通行じゃないかと思ったのです。

人って、こうありたいとか、こうなってほしいとか、こうするべきと思い始めると、相手に対しての思いが強くなり過ぎて、『素直』に相手がどうしたら理解してくれるのだろうかなんて、全然思っていないんじゃないでしょうか。

だから、相手の事を思って言う事も、相手にとっては素通りで耳の痛い話に変わって聞こえてしまうのじゃないか。

相手が理解出来る表現で、何度も何度も伝える努力をしたり、理解してくれる分かりやすい表現を使って話せば、少しでも理解出来なかった双方の『言葉』の壁も無くなり、本来の自然と通づる『言葉の思い』となるのではないかと思うのです。

とりとめの無い話となってしまったが、ただ話をすると思いを伝えるの意味合いの違いを、改めて理解したのです。




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